米ネット検索最大手グーグルが、ポータル(玄関)サイト大手AOL株の売却を親会社のタイムワーナーに打診したことが4日、明らかになった。グーグルは2005年に10億ドル(約900億円)を投じてAOLに5%出資し、ネット広告分野で提携した。タイムワーナーは他の企業との提携などを模索しており、業界再編につながる可能性もある。
タイムワーナーが同日開いたアナリスト向け説明会で、グーグルから株式売却の意向を伝える書簡を先週末に受け取ったと表明した。タイムワーナーはグーグルから時価で買い戻す案、グーグルが市場で売却する案などを軸に「あらゆる選択肢を検討している」(ジェフリー・ビューケス最高経営責任者)。低採算のAOLをスピンオフ(分離)する可能性もある
米ネット検索最大手グーグルが、ポータル(玄関)サイト大手AOL株の売却を親会社のタイムワーナーに打診したことが4日、明らかになった。グーグルは2005年に10億ドル(約900億円)を投じてAOLに5%出資し、ネット広告分野で提携した。タイムワーナーは他の企業との提携などを模索しており、業界再編につながる可能性もある。
タイムワーナーが同日開いたアナリスト向け説明会で、グーグルから株式売却の意向を伝える書簡を先週末に受け取ったと表明した。タイムワーナーはグーグルから時価で買い戻す案、グーグルが市場で売却する案などを軸に「あらゆる選択肢を検討している」(ジェフリー・ビューケス最高経営責任者)。低採算のAOLをスピンオフ(分離)する可能性もある
米メディア大手タイムワーナーは4日、2008年10―12月期の最終損益が160億3200万ドル(約1兆4200億円)の赤字に転落したと発表した。前年同期は10億3100万ドルの黒字だった。傘下のCATVやインターネット、出版事業の業績悪化に伴って営業権など無形資産の価値が大きく目減りし、242億ドルの評価損を計上したことが足を引っ張った。
売上高は2.7%減の123億600万ドル。特に不振だったのはCATV子会社タイムワーナー・ケーブル(TWC)とネットサービスAOL、雑誌「タイム」などを持つ出版部門の3部門。ネット接続(プロバイダー)事業が振るわないAOLは広告収入が18%減、加入者収入が27%減と大きく落ち込んだ。
米メディア大手のタイムワーナー(TW)は7日、2008年12月期通期の最終損益が赤字に転落したもようだと発表した。07年12月期は43億8700万ドル(約4000億円)の黒字だった。傘下のCATV子会社やインターネット、出版部門の業績悪化に伴う約250億ドルの減損損失計上が響いた。
10―12月期に損失を計上したのは、営業権など無形資産の価値が大きく目減りしたため。CATV子会社タイムワーナー・ケーブル(TWC)、ネットサービス部門AOL、雑誌「タイム」を抱える出版部門の資産が対象。営業損益でも赤字(07年12月期は89億4900万ドルの黒字)になったという。
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粗鋼生産の減産について
Fri 23 Jan’09
国内鉄鋼最大手の新日本製鉄が粗鋼生産の減産幅を約400万トンに拡大する方針を固めたことが23日、分かった。自動車メーカーなどで減産の動きが拡大し鉄鋼需要が大きく落ち込んでいることから、3月に改修工事を計画していた大分製鉄所(大分市)の高炉の改修を1カ月前倒しすることや、君津製鉄所(千葉県君津市)の高炉3基のうち1基について休止する方向で検討に入った。新日鉄は08年11月、自動車各社などの大幅減産を受け、鉄鋼製品の原料となる粗鋼の今年度の減産幅が200万トン強になると発表した。
しかし、その後もトヨタ自動車が2~4月の国内生産台数を前年同期比4~5割減産する意向を明らかにするなど、生産縮小の動きは続いており、新日鉄も減産の幅の拡大を検討していた。
粗鋼生産の減産については、JFEスチールが1月中旬から西日本製鉄所倉敷地区(岡山県倉敷市)の高炉1基の操業を休止するほか、住友金属工業は前年度比50万トン、神戸製鋼所も60万トンをそれぞれ減産すると発表している。
国内鉄鋼最大手の新日本製鉄が粗鋼生産の減産幅を約400万トンに拡大する方針を固めたことが23日、分かった。自動車メーカーなどで減産の動きが拡大し鉄鋼需要が大きく落ち込んでいることから、3月に改修工事を計画していた大分製鉄所(大分市)の高炉の改修を1カ月前倒しすることや、君津製鉄所(千葉県君津市)の高炉3基のうち1基について休止する方向で検討に入った。
新日鉄は08年11月、自動車各社などの大幅減産を受け、鉄鋼製品の原料となる粗鋼の今年度の減産幅が200万トン強になると発表した。しかし、その後もトヨタ自動車が2~4月の国内生産台数を前年同期比4~5割減産する意向を明らかにするなど、生産縮小の動きは続いており、新日鉄も減産の幅の拡大を検討していた。
粗鋼生産の減産については、JFEスチールが1月中旬から西日本製鉄所倉敷地区(岡山県倉敷市)の高炉1基の操業を休止するほか、住友金属工業は前年度比50万トン、神戸製鋼所も60万トンをそれぞれ減産すると発表している。
しかし、その後もトヨタ自動車が2~4月の国内生産台数を前年同期比4~5割減産する意向を明らかにするなど、生産縮小の動きは続いており、新日鉄も減産の幅の拡大を検討していた。
粗鋼生産の減産については、JFEスチールが1月中旬から西日本製鉄所倉敷地区(岡山県倉敷市)の高炉1基の操業を休止するほか、住友金属工業は前年度比50万トン、神戸製鋼所も60万トンをそれぞれ減産すると発表している。
国内鉄鋼最大手の新日本製鉄が粗鋼生産の減産幅を約400万トンに拡大する方針を固めたことが23日、分かった。自動車メーカーなどで減産の動きが拡大し鉄鋼需要が大きく落ち込んでいることから、3月に改修工事を計画していた大分製鉄所(大分市)の高炉の改修を1カ月前倒しすることや、君津製鉄所(千葉県君津市)の高炉3基のうち1基について休止する方向で検討に入った。
新日鉄は08年11月、自動車各社などの大幅減産を受け、鉄鋼製品の原料となる粗鋼の今年度の減産幅が200万トン強になると発表した。しかし、その後もトヨタ自動車が2~4月の国内生産台数を前年同期比4~5割減産する意向を明らかにするなど、生産縮小の動きは続いており、新日鉄も減産の幅の拡大を検討していた。
粗鋼生産の減産については、JFEスチールが1月中旬から西日本製鉄所倉敷地区(岡山県倉敷市)の高炉1基の操業を休止するほか、住友金属工業は前年度比50万トン、神戸製鋼所も60万トンをそれぞれ減産すると発表している。
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大間産の本マグロ
Sat 10 Jan’09
年越し派遣村から生活保護申請などに向かう人たち(5日午前、東京・霞が関で)
東京・日比谷公園に先月31日から開設されていた「年越し派遣村」では5日、宿泊場所となっていた厚生労働省の講堂で、午前10時前から最後の集会が行われた。村長を務めるNPO法人事務局長の湯浅誠さんが「今日から次の生活のスタートです。大変ですが頑張って下さい」とあいさつすると拍手が起きた。
先月まで日雇い派遣で生活費を稼ぎ、ネットカフェなどで寝泊まりしてきたという男性(40)は「派遣村で過ごし、一人ではないことに気づかされた。不安はあるが、住居と少しでも安定した仕事を見つけたい」と話していた。
同村実行委によると、4日夜に講堂や同公園に泊まった元派遣社員らは489人。一同は集会後、12日までの受け入れ先となった中央区などの計4施設への引っ越し作業を開始。一部は正午過ぎから国会へ向け、デモ行進した。
派遣村から約230人分の生活保護申請がファクスで寄せられた千代田区では、5日午前、職員ら約50人が対応に追われた。区庁舎1階に生活保護の申請や健康相談の窓口を特設、庁舎前では防災用の保存食約300食の炊き出しを行った。この日は申請者のうち75人が正午前に区庁舎に向かい、手続きを進めた。
派遣社員が鉄道自殺 宇都宮線の踏切
4日午後11時半頃、埼玉県蓮田市上のJR宇都宮線黒浜新道踏切で、線路内に歩いて入った同市の男性派遣社員(52)が、湘南新宿ライン逗子発小金井行き普通電車(10両編成)にはねられ即死した。
岩槻署は、男性が線路上に立っていたことなどから、自殺とみて調べている。発表によると、男性は昨年5月、同市内で経営していた居酒屋を廃業。派遣社員として仕出し弁当の調理をしていたが、最近になって「生きていくのが嫌になった」と周囲に漏らしていたという。男性は、高校1年と中学1年の2人の息子と暮らしていた。
この事故で、宇都宮線など計6本で最大1時間3分の遅れが生じ、約4700人に影響した。
祝えぬ船出 工場なお休業「初荷式」中止… 大発会を終え、晴れ着姿で仕事をする東証社員ら(5日午前、東証で)=林陽一撮影
昨年来の不況で働く先の見つからない人、長年続けてきた賀詞交換会を取りやめた企業――。多くの人が、明日の暮らしへの不安を抱きながら5日の「仕事始め」を迎えた。
■「開店休業」
期間従業員らの契約が大量に解除された大分市の東芝大分工場は一部の生産ラインを除き、14日まで22日間の休業が続いている。5、6日の2日間は、すべての生産ラインが停止されたため、工場の駐車場はがら空きの状態だ。
工場近くのコンビニの店員は「いつもの仕事始めなら、もっとお客さんが多いんですが……」。弁当やサンドイッチは休業を見越して品数が少なく、立ち寄る人もまばらだった。
昨年末に派遣労働者820人を削減した「いすゞ自動車」は、約40年間続けていた賀詞交換会を取りやめた。広報部によると、取りやめは、人員削減が進められた昨年12月に急きょ決められた。広報担当者は「派遣労働者の削減などもあり、様々なことを考慮した」と漏らした。
6日から今年の操業を始める「マツダ」は広島市などの本社工場と山口県防府市の防府工場で、初荷の自動車を飾り付けて送り出す、新春恒例の「初荷歓送式」を今年以降取りやめる。マツダグローバル広報企画部は「生産台数の見直しなど、会社を取り巻く経済環境悪化を考慮して祝賀ムードを自粛した」としている。
■求職者の列
千葉市のハローワーク千葉には5日午前8時過ぎから、40人余の行列ができた。千葉県市原市出身の男性(37)は先月初旬、登録していた派遣会社から契約を打ち切られた。クリスマスの25日に同僚15人と一斉に寮を追い出され、ネットカフェやコンビニの駐車場などで夜を明かしてきた。「手持ちの現金もあと2、3日。携帯電話の料金も今月は払えないかもしれない。連絡をとる手段もなくなってしまう」と窮状を訴えた。
各地のハローワークでは、職員が早朝に出勤して相談者の対応にあたるなどしたが、浜松市のハローワーク浜松の職員は「相談者が開庁を待っていた仕事始めは初めて」と驚いていた。
■株価は一息
新年最初の株取引となる大発会が行われた東京証券取引所では、日経平均株価が約2か月ぶりに9000円台を回復、関係者からは安堵(あんど)の声が上がった。
振り袖姿の女性社員が華やかなムードを演出する中、取引所内の電光掲示板には午前9時の取引開始から、次々と買い注文を示す赤い表示が流れた。証券会社の役員(60)は「ニューヨークも上がったし、ご祝儀相場だ」とほおをゆるませたが、「明日以降はどうなるかわからない」と表情を引き締めた。
東京都足立区の個人投資家、石山金治さん(75)も「株価の回復を気長に待ちます」。栃木県佐野市の会社員の男性(38)は「雇用が減ると個人消費も低迷し、株価も下がる。政府は雇用対策をしっかりやってほしい」と注文していた。
マグロ初競り 1本963万円築地 真剣な表情でマグロを選ぶ卸業者ら(5日午前4時56分、東京・中央区の築地市場で)
東京・築地の中央卸売市場で5日早朝、今年の初競りが行われた。生鮮マグロの卸売場に並んだのは、昨年より249本多い728本。午前5時すぎ、仲買人らが「手締め」を行って豊漁と商売繁盛を願った後、次々と目当てのマグロを競り落としていった。
毎年高値が付く青森・大間産の本マグロは、しけで水揚げが少なかったため、入荷はわずか3本。最高値は1本963万円(128・4キロ)で、過去10年では2001年の2020万円に次ぐ高値を記録した。1キロあたりでは7万5000円となり、前年の3・4倍にはね上がった。最高値のマグロを競り落としたのは仲卸業者「やま幸」で、香港と日本で店舗を展開するすし店と、東京・銀座のすし店が共同購入した。香港のすし店を経営するリッキー・チェーンさん(41)は「不景気だけに、縁起のいい初競りで一番のマグロを買いたかった」と話していた。
東京・日比谷公園に先月31日から開設されていた「年越し派遣村」では5日、宿泊場所となっていた厚生労働省の講堂で、午前10時前から最後の集会が行われた。村長を務めるNPO法人事務局長の湯浅誠さんが「今日から次の生活のスタートです。大変ですが頑張って下さい」とあいさつすると拍手が起きた。
先月まで日雇い派遣で生活費を稼ぎ、ネットカフェなどで寝泊まりしてきたという男性(40)は「派遣村で過ごし、一人ではないことに気づかされた。不安はあるが、住居と少しでも安定した仕事を見つけたい」と話していた。
同村実行委によると、4日夜に講堂や同公園に泊まった元派遣社員らは489人。一同は集会後、12日までの受け入れ先となった中央区などの計4施設への引っ越し作業を開始。一部は正午過ぎから国会へ向け、デモ行進した。
派遣村から約230人分の生活保護申請がファクスで寄せられた千代田区では、5日午前、職員ら約50人が対応に追われた。区庁舎1階に生活保護の申請や健康相談の窓口を特設、庁舎前では防災用の保存食約300食の炊き出しを行った。この日は申請者のうち75人が正午前に区庁舎に向かい、手続きを進めた。
派遣社員が鉄道自殺 宇都宮線の踏切
4日午後11時半頃、埼玉県蓮田市上のJR宇都宮線黒浜新道踏切で、線路内に歩いて入った同市の男性派遣社員(52)が、湘南新宿ライン逗子発小金井行き普通電車(10両編成)にはねられ即死した。
岩槻署は、男性が線路上に立っていたことなどから、自殺とみて調べている。発表によると、男性は昨年5月、同市内で経営していた居酒屋を廃業。派遣社員として仕出し弁当の調理をしていたが、最近になって「生きていくのが嫌になった」と周囲に漏らしていたという。男性は、高校1年と中学1年の2人の息子と暮らしていた。
この事故で、宇都宮線など計6本で最大1時間3分の遅れが生じ、約4700人に影響した。
祝えぬ船出 工場なお休業「初荷式」中止… 大発会を終え、晴れ着姿で仕事をする東証社員ら(5日午前、東証で)=林陽一撮影
昨年来の不況で働く先の見つからない人、長年続けてきた賀詞交換会を取りやめた企業――。多くの人が、明日の暮らしへの不安を抱きながら5日の「仕事始め」を迎えた。
■「開店休業」
期間従業員らの契約が大量に解除された大分市の東芝大分工場は一部の生産ラインを除き、14日まで22日間の休業が続いている。5、6日の2日間は、すべての生産ラインが停止されたため、工場の駐車場はがら空きの状態だ。
工場近くのコンビニの店員は「いつもの仕事始めなら、もっとお客さんが多いんですが……」。弁当やサンドイッチは休業を見越して品数が少なく、立ち寄る人もまばらだった。
昨年末に派遣労働者820人を削減した「いすゞ自動車」は、約40年間続けていた賀詞交換会を取りやめた。広報部によると、取りやめは、人員削減が進められた昨年12月に急きょ決められた。広報担当者は「派遣労働者の削減などもあり、様々なことを考慮した」と漏らした。
6日から今年の操業を始める「マツダ」は広島市などの本社工場と山口県防府市の防府工場で、初荷の自動車を飾り付けて送り出す、新春恒例の「初荷歓送式」を今年以降取りやめる。マツダグローバル広報企画部は「生産台数の見直しなど、会社を取り巻く経済環境悪化を考慮して祝賀ムードを自粛した」としている。
■求職者の列
千葉市のハローワーク千葉には5日午前8時過ぎから、40人余の行列ができた。千葉県市原市出身の男性(37)は先月初旬、登録していた派遣会社から契約を打ち切られた。クリスマスの25日に同僚15人と一斉に寮を追い出され、ネットカフェやコンビニの駐車場などで夜を明かしてきた。「手持ちの現金もあと2、3日。携帯電話の料金も今月は払えないかもしれない。連絡をとる手段もなくなってしまう」と窮状を訴えた。
各地のハローワークでは、職員が早朝に出勤して相談者の対応にあたるなどしたが、浜松市のハローワーク浜松の職員は「相談者が開庁を待っていた仕事始めは初めて」と驚いていた。
■株価は一息
新年最初の株取引となる大発会が行われた東京証券取引所では、日経平均株価が約2か月ぶりに9000円台を回復、関係者からは安堵(あんど)の声が上がった。
振り袖姿の女性社員が華やかなムードを演出する中、取引所内の電光掲示板には午前9時の取引開始から、次々と買い注文を示す赤い表示が流れた。証券会社の役員(60)は「ニューヨークも上がったし、ご祝儀相場だ」とほおをゆるませたが、「明日以降はどうなるかわからない」と表情を引き締めた。
東京都足立区の個人投資家、石山金治さん(75)も「株価の回復を気長に待ちます」。栃木県佐野市の会社員の男性(38)は「雇用が減ると個人消費も低迷し、株価も下がる。政府は雇用対策をしっかりやってほしい」と注文していた。
マグロ初競り 1本963万円築地 真剣な表情でマグロを選ぶ卸業者ら(5日午前4時56分、東京・中央区の築地市場で)
東京・築地の中央卸売市場で5日早朝、今年の初競りが行われた。生鮮マグロの卸売場に並んだのは、昨年より249本多い728本。午前5時すぎ、仲買人らが「手締め」を行って豊漁と商売繁盛を願った後、次々と目当てのマグロを競り落としていった。
毎年高値が付く青森・大間産の本マグロは、しけで水揚げが少なかったため、入荷はわずか3本。最高値は1本963万円(128・4キロ)で、過去10年では2001年の2020万円に次ぐ高値を記録した。1キロあたりでは7万5000円となり、前年の3・4倍にはね上がった。最高値のマグロを競り落としたのは仲卸業者「やま幸」で、香港と日本で店舗を展開するすし店と、東京・銀座のすし店が共同購入した。香港のすし店を経営するリッキー・チェーンさん(41)は「不景気だけに、縁起のいい初競りで一番のマグロを買いたかった」と話していた。
— posted by サイト管理者 at 04:36 pm
当時としては女性蔑視が少ない
Mon 29 Dec’08
交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった漱石のように弟子を取ったり[31]、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、文芸雑誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
文学者・文人に限っても、訳詩集『於母影』は5人よる共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鴎外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人をまねいて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月までつづいた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斉藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて述べ22名)[32]。
また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうや純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した[33]。その鴎外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(『安井婦人』、戯曲『静』、『花子』、翻訳戯曲『ノラ』(イプセン作『人形の家』))。
[編集] 軍医として
森 林太郎
1862年2月17日-1922年7月9日
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1891 -
最終階級 陸軍軍医総監
指揮 陸軍省医務局長
賞罰 正四位・勲二等・功三級
除隊後 小説家
上記のとおり鴎外は、東京大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であり、医学先進国ドイツに4年間留学し、最終的に軍医総監(中将相当)・医務局長にまで上りつめた。 当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。自説に固執し、当時海軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であるとしていた。ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木により食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためである)。実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している。日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰された経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外の述懐である。
後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。また、赤痢菌を見つけた志賀潔などが脚気の栄養由来説を支持したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。
作業中です。
文学者・文人に限っても、訳詩集『於母影』は5人よる共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鴎外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人をまねいて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月までつづいた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斉藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて述べ22名)[32]。
また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうや純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した[33]。その鴎外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(『安井婦人』、戯曲『静』、『花子』、翻訳戯曲『ノラ』(イプセン作『人形の家』))。
[編集] 軍医として
森 林太郎
1862年2月17日-1922年7月9日
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1891 -
最終階級 陸軍軍医総監
指揮 陸軍省医務局長
賞罰 正四位・勲二等・功三級
除隊後 小説家
上記のとおり鴎外は、東京大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であり、医学先進国ドイツに4年間留学し、最終的に軍医総監(中将相当)・医務局長にまで上りつめた。 当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。自説に固執し、当時海軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であるとしていた。ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木により食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためである)。実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している。日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰された経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外の述懐である。
後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。また、赤痢菌を見つけた志賀潔などが脚気の栄養由来説を支持したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。
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— posted by サイト管理者 at 04:24 pm
華族令により公爵となった
Fri 12 Dec’08
琉球諸島を除く薩摩藩領は、1871年(明治4年)の廃藩置県を経て鹿児島県となる。
島津家は、1884年(明治17年)の華族令により公爵となった。
[編集] 石高の推移
薩摩藩には内検と呼ばれる藩独自の検地を行っていた。俗に言う「薩摩77万石」とは享保内検から琉球分9万4千石余を引いた値である[2]。
文禄検地…56万9千石余(文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果)
慶長内検…73万2千石余
寛永16年…69万9千石余
万治内検…74万7千石余
享保内倹…86万7千石余
文政9年…89万9千石余
実質は約35万石ほどと推測されている。なお、琉球の石高12万石は表高に加えることを許されたが、その分は無役(軍役の対象とならない)とされている。
[編集] 歴代藩主
島津家
徳川幕府外様 77万石
家久(いえひさ)〔従三位・薩摩守、中納言〕
光久(みつひさ)〔従四位上・薩摩守、左近衛中将〕
綱貴(つなたか)〔従四位上・薩摩守、左近衛中将〕
吉貴(よしたか)〔正四位下・薩摩守、左近衛中将〕
継豊(つぐとよ)〔従四位上・大隅守、左近衛中将〕
宗信(むねのぶ)〔従四位上・薩摩守、左近衛中将〕
重年(しげとし)〔従四位下・薩摩守、左近衛少将〕
重豪(しげひで)〔従四位上・薩摩守、左近衛中将 隠居後・従三位〕
斉宣(なりのぶ)〔正四位上・薩摩守、左近衛中将〕
斉興(なりおき)〔正四位上・大隅守、参議 隠居後・従三位〕
斉彬(なりあきら)〔正四位上・薩摩守、左近衛中将 死去後に贈従一位・権中納言〕
忠義(ただよし)〔従一位・大隅守〕
[編集] 支藩(佐土原藩)
佐土原藩(さどわらはん)は、薩摩藩の支藩とされる。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。
1603年(慶長8年)、島津貴久の弟・忠将の子である島津以久が、日向国那珂郡・児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を佐土原)に構えた。この地は元々島津一族の一人であった島津家久・豊久親子の領地であったのが、改めて江戸幕府より以久に与えられたもので、この経緯から正式には薩摩藩の支藩とはいえない。しかし、その後本家に当たる薩摩藩からの度重なる介入を受けた事により、支藩と見なされることが多くなった。
他藩の支藩が、本藩に継嗣無きときには当主を出すなどの重要な役割を果たすこともあったのに対し、佐土原藩は薩摩藩からは従属の立場にあると見なされていた。代々の佐土原藩主正室には薩摩藩出身者(当主島津氏の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘もいる)が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどに、その弱い立場が如実に現れている。
佐土原は元々城地であったため、1699年(元禄12年)に第6代・島津惟久の時に城主格が与えられている。又、惟久は義兄である前代・久寿に3000石を分与し、27000石となった。最後の藩主・忠寛は、1869年(明治2年)に戊辰戦争の激戦の功により、賞禄3万石を与えられた。
廃藩置県の後、佐土原県・美々津県・宮崎県・鹿児島県を経て宮崎県に編入された。
昭和天皇の内親王・貴子が嫁いだ島津久永は、旧佐土原藩の島津伯爵家出身である。
理解できました。
島津家は、1884年(明治17年)の華族令により公爵となった。
[編集] 石高の推移
薩摩藩には内検と呼ばれる藩独自の検地を行っていた。俗に言う「薩摩77万石」とは享保内検から琉球分9万4千石余を引いた値である[2]。
文禄検地…56万9千石余(文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果)
慶長内検…73万2千石余
寛永16年…69万9千石余
万治内検…74万7千石余
享保内倹…86万7千石余
文政9年…89万9千石余
実質は約35万石ほどと推測されている。なお、琉球の石高12万石は表高に加えることを許されたが、その分は無役(軍役の対象とならない)とされている。
[編集] 歴代藩主
島津家
徳川幕府外様 77万石
家久(いえひさ)〔従三位・薩摩守、中納言〕
光久(みつひさ)〔従四位上・薩摩守、左近衛中将〕
綱貴(つなたか)〔従四位上・薩摩守、左近衛中将〕
吉貴(よしたか)〔正四位下・薩摩守、左近衛中将〕
継豊(つぐとよ)〔従四位上・大隅守、左近衛中将〕
宗信(むねのぶ)〔従四位上・薩摩守、左近衛中将〕
重年(しげとし)〔従四位下・薩摩守、左近衛少将〕
重豪(しげひで)〔従四位上・薩摩守、左近衛中将 隠居後・従三位〕
斉宣(なりのぶ)〔正四位上・薩摩守、左近衛中将〕
斉興(なりおき)〔正四位上・大隅守、参議 隠居後・従三位〕
斉彬(なりあきら)〔正四位上・薩摩守、左近衛中将 死去後に贈従一位・権中納言〕
忠義(ただよし)〔従一位・大隅守〕
[編集] 支藩(佐土原藩)
佐土原藩(さどわらはん)は、薩摩藩の支藩とされる。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。
1603年(慶長8年)、島津貴久の弟・忠将の子である島津以久が、日向国那珂郡・児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を佐土原)に構えた。この地は元々島津一族の一人であった島津家久・豊久親子の領地であったのが、改めて江戸幕府より以久に与えられたもので、この経緯から正式には薩摩藩の支藩とはいえない。しかし、その後本家に当たる薩摩藩からの度重なる介入を受けた事により、支藩と見なされることが多くなった。
他藩の支藩が、本藩に継嗣無きときには当主を出すなどの重要な役割を果たすこともあったのに対し、佐土原藩は薩摩藩からは従属の立場にあると見なされていた。代々の佐土原藩主正室には薩摩藩出身者(当主島津氏の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘もいる)が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどに、その弱い立場が如実に現れている。
佐土原は元々城地であったため、1699年(元禄12年)に第6代・島津惟久の時に城主格が与えられている。又、惟久は義兄である前代・久寿に3000石を分与し、27000石となった。最後の藩主・忠寛は、1869年(明治2年)に戊辰戦争の激戦の功により、賞禄3万石を与えられた。
廃藩置県の後、佐土原県・美々津県・宮崎県・鹿児島県を経て宮崎県に編入された。
昭和天皇の内親王・貴子が嫁いだ島津久永は、旧佐土原藩の島津伯爵家出身である。
理解できました。
— posted by サイト管理者 at 07:04 pm














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